No emotion

闇と厳冬

偽善者しかいない世界。

「これからどうするの?」

 

私が、

体調崩して閉じ籠るきっかけになった人達は、

人形の如くそればかり呟いた。

 

私は「だったら、責任者になれるの?」

「面倒見てくれるの?」。

 

人の心と、人生を、潰したのはそちらでしょう。

 

責任を取って欲しいなんて、思っていない。

けれどもその言葉が中身が無くて、無責任で。

無責任に他人がこれからどうするの、なんて

軽くて残酷な言葉を吐き出す人間がに失望していく。

 

「こうなりなさい」

「こうなるべき」

 

と説教の様に、伝える人達。

自身の人生計画をぶち壊しても、自身の価値観を押しつける。

それは美徳なのか。そう思うと反吐が出そう。

 

なのに、自身は悪者になりたくないから

だだ口先だけで美談を語ろうとする。

加害者になりたくないから。

 

口先だけしか言えない癖に、責任も取れない癖に。

ならば「形にもならない言葉」を吐かないで。

 

口先だけ立派な事を

言いたがる大人達に、絶句すると共に思った。

嗚呼「この人って、口先だけ立派な事を言いたがる」

「自分自身に酔っているんだ」だと。

 

だからこそ、嫌気がさした。

とてつもない偽善者ばかりの世界、

私はそうなりたくないと思った。そして思った。

この世界に行き続けたら偽善者になる、と。

 

 

私は重度の人間不振になってしまった。

 

自業自得。

 

 

眠れないから、お酒に逃げる。

眠れないから、オーバードース

それを繰り返している。

 

全ては、眠る為の代償と引き換え。

分かってる。割りきないと思わないと。

そうでもしないと眠れない身体なのだから。

 

誰も理解してくれないのなら、 

責めてでも自分自身が理解しなくては。

でもそれすら放棄したくなる放棄したくなる。 

 

お酒も得意でもなく、苦手。

強いてオーバードースなんてしたくない。

けれど眠る為には必要なんだと思い聞かせら

呑んでいる自分自身がいる。

理解ない世界では。

 

数ヶ月間、何故か睡眠リズム、というものが

大人しくなり規則的になっていた。

けれども心の片隅でまた「鬱の状態」が

来るのだろうなと疑心暗鬼。

 

不眠症による鬱なので、不眠症ではあれば

ある程に鬱の状態は加速してかなり病む。

夜が来ると鬱状態と、眠れるのだろうか、

私は不安感に苛まれて、それをお酒で紛らわそうとする。

悪循環。

 

 

心穏やかに居られない。

理解者なんて求めていないし、

理解者なんていない環境だから諦めている。

ただ理解も出来ないのに間違っている憶測で

物事を決めつけるのところを見て、

 

私は、ひとりぼっちだ。

 

と確認する。

不眠症と、鬱は自身で闘うしかないのだ。

心留めブレスレット。

 

私は、”心が不安定な時”にだけ、

着けるブレスレットがある。

 

それは、心が不安定で、

鬱状態の時にだけ”着けるブレスレット。

もう少し付け足せば、私の心のシグナル。

それは、私だけしか知らないこと。 

 

そのブレッドを見ていると、心が安らぐ。

誰も知らない私だけのシグナル。

誰も知らない。

 

 言葉を

吐き出せる人はいいよな、と思ってしまう。

私は心に留めてしまうだけだから。

思えば心許せる相手だからこそ、

“オープンに素になれる”という事だと思う。  

 

私には、心から許せる相手なんていない。

言えない感情でお酒の酔いで紛らわす。

深酒になっても、そのせいで、肝臓を数値が

上がっても気にしない。………寧ろ、本望だ。

 

許してしまった故に過ちがあるから。

今日もお酒で、不眠症を紛らわす。 

不眠症の事実を紛らわして、意識を失うまで。

不眠症から、鬱の状態。

このジレンマから抜けだせそうにない。

心の思いを、不眠症による鬱をお酒で紛らわせる。 

 

 

 

憂と鬱。

 

また明日がくる。

試行錯誤して眠りに着いたとしても無意味で気絶した様に眠ったとしても、

生きている限りまた意識が覚醒して、

また試行錯誤の末に眠りに着く。

 

こんな事、何年、続けているんだろう。

こんな事、これから何年続くのだろう。

精神的に、心から首を絞められる毎日。

 

目覚めた時の絶望感。

消えたくて堪らない。今日もそう。

 

お酒。

今日も、寝酒で心で紛らわしていく。

そうやって、
“自分自身は不眠症”という現実から逃げるのだ。
お酒の酔い、だけが回っている時だけは、
少しばかりの安らぎを得れる。

お酒に申し訳ない。
こんな心の持ち主に呑まれたくないよね。
ごめんなさい。ごめんなさい。

カップ麺。

 

 

感謝しています。

カップ麺で育った、と言えば過言ではありません。

 

でもこの度、“嗜む程度に味わうもの”

という現実を目の当たりにしました。

カップ麺は大好きです。

 

私は母子家庭で育ち、一人娘である私は鍵っ子でした。

いつも傍にいてくれたカップ麺です。

時折新しい味の麺が現れる度に味わって食べていた。

悠々と楽しんで食べていた。

それが何十回、何百だとしても。

 

…………でも、次第は心のどこかで味わいたい、

有難さを噛み締めていたいというの

気持ちとは裏腹に味が当たり前の様に感じてならないのです。

食物、食べられる物があるだけで、

感謝と有難さを毎回、身に染みる思いです。

”感じたくたくなかった当たり前“が現実にある。

嫌だ、味わいたいたい、感謝を噛み締めていたい。

これが、この現実が当たり前だなんて思いたくもない。

 

 そんな気持ちとは裏腹に

慣れきっていく。心と味覚。

それが憎くてたまらない。